昭和46年11月23日 月次祭



 私はいつも思うんですけれども、世の中の人間氏子が、みんな私のような人間ばっかりであったら、どのような素晴らしい世界が、生まれるだろうかと、夢のような事ですけれども、これは夢であってはならないと、また自分の心の中にしっかり言い聞かせて頂いて、そして、世の中に私のような人間が一人でも、二人でも多くなっていく事を願わなければならない、またそのための精進努力なら、どんな精進努力でも、惜しんではならないと思うんです。
 みなさんどうでしょうか、合楽の親先生のような人が世界中の人達がみんな合楽の親先生のようだったら、もう警察もいらないでしょう(笑い)ね、兵隊さんも作ることもいらないでしょう、武器を作る事は勿論いりません。どうでしょうか、みなさんそれを本当にそう思うて下さらなければいけんのです、ここに通ってきたら、ここに通ってくる値打ちはそれなんですね、第一ね。
 お金に全然不自由致しません、物に不自由致しません食べ物にね、まあ言うならば人間のありとあらゆる幸福の条件というものをです、私は頂いておるんですね、その大なる物は和賀心なのですね、ですから私の様な人間がです、世の中にね、沢山出来てくると言う事が私は世の中の、いわば真の平和とかね。そう御祈念の時に申しますけれども、世界真の平和というものは、私の様な人間が世界中の人間の心の中にですね。
 私のようにならなくてもいい、いかにそういうと私しゃまあ大成功したようですけれども、またそういう意味じゃないです、私自分でおもうです、私のような人間ばっかりになったらね、もう本当に世の中は有り難い、勿体無い、それこそ世界中が極楽になると私は信じますね、だからというて雨が降らんと言う事じゃないですよ、風が吹かんと言う事じゃないですよ、雨もありゃ嵐もありますけれどもです、その雨やら嵐をです、より幸せになっていく事のための、ことにしか考えないのですから。
 それは、場合には、なら、敵のような人が出来るかもしれませんけれどもですね、その人も、やはり祈って行けれるね、私は本当にそう思うんです。ですから、ここに通ってみえる皆さんはです、結局は、なら親先生のような人にならせて頂こう、在り方にならせて頂こう、あぁいう物の考え方にならせて頂こうという、いわば、私を一つの手本として、合楽には通ってみえるんだと私は思うんです。
 そして皆さんが一番願うておられる、様々な人間の幸福の条件と言う物をすべてに身につけて頂きたいと言う事なんだ、そういう例えば金にも不自由せん、物にも不自由せん、人間の幸せの条件のすべてを頂きたいという願いを持っておってもです、願いをもつなら、先ずんなら私の真似をしなければならないと言う事になるじゃないでしょうかね。私は本当に口をはばかってこれを申します、私のような人が本当にね、例えば家中にあれば家はもう絶対に円満であるね。
 とまではならなくても、結局親先生を中心にと言う事になれば、私の家は絶対に円満であるね、村中が町中が、日本国中がそう言う事になっていくところの、私は祈りと言うものをです、皆さんが、祈りには祈っております、世界総氏子身の上安全世界真の平和と、朝晩声を大にして祈っておりますけれどね、その真の平和の心と言う物をです、祈っておる私自身が持っておらなければね、それは言うならば、空念仏的なことになるのじゃないでしょうかね。
 ですから、私が助かって言っておるような状態、そういう姿と言うものをですね、皆さんが本当に手本にして下さらなきゃいけない、そしてなら私はこれで良いとは思うておりません、まだ一生かかってです、いよいよいわゆる、わが心は神にむこうていくという、そういう完成をむかって、これはもう限りなく進められて、これで良いと言う事は無いと思う、なら、これぐらいおかげを頂いておるのであってもです。
 私のような人間がです、村中に(  ?  )もう、村はいよいよ繁盛していくに違いが無い、村中に困った事が起こってこない、問題があってもその問題をいよいよ有り難いと言うことになっていくという生き方をです、教祖金光大神は教えられたんだと思います。その教えを私がひたうけに受けさせて頂く事に精進させて頂いて、そして、そして、皆さんにそれをお取次ぎをさせて頂いておる訳でございますから。
 ちっと、これはオーバーでしょうか、これだけはオオバーじゃない、もう絶対そうなんだ、と私は思うですけど、皆さんが本当に先生そうですと、いうて下さらなければね、本当に私は合楽で一生懸命御用をさせて頂く値打ちがないとです、ただこの事を願いします、このこともどうぞいっちょお願いしますというだけのお取次ぎだけではね、皆さん本当にそうだといっちょ思うて下さらなければですね、もう本当に、朝晩私が聞いて頂いてとるお話はね、もう大したことはないです。
 そういう例えば人達が、合楽にはねポツポツでけてきたと言うことが有り難いと思います。先ほど前講に私のほうの娘、愛子が御用を頂いておりました。けれどももし信心がなかったら、いや信心があっても精進の心が無かったらなんなに悩まなくていいだろうと思います。真剣に悩んでおる、真剣に取り組んでおる、それができないその脅かしさ、歯痒さが、まあ、今日のお話になったんだと思います。
 親先生が私に何を求めておられるかとね、確かにあの人、私はあの人の部屋に入ってみたらあまり殺風景に驚いた、なぁにも飾り物がない。例えばタンスの上に飾り窓、飾りケースがついとると、その中になんにも入っていない、これは本当にですね、その私は素晴らしいことだと思うですね、それで自分の心が、まあ平常通りでいれると言う事はね、私共は行く所、行くところに、その自分の気分のよい、例えば私なんかはね、合楽にはもう家中、部屋中に壺なんかはおいてございましょう。
 いろいろな壺がおいております。好きなんです、ですから、その壺を見るたんびにいいなぁと思うんです。そのいいなぁと思う心がおかげの心なんです、和賀心なんですね、自分の部屋にはいろんな飾り物でいっぱいです、そしていいなぁと思う、その心を私共は楽しいんですけれども、確かに愛子の部屋に入りましたら何もおいてない。この頃から親先生のまあ餞に人形、これも頂きました。
 中に余ったのがいくらもありますからその一つを私は子供にいうて、2階の愛子さんがタンスに飾りケースの中に入れてやりなさいちいうて子供に申しましたから、それをまあ入れてやったと言う訳ですね、小さい可愛いらしい子供が太鼓に向かって打っておる人形なんです、それを見て愛子は思うた、これを持ってくる物は誰の他に持ってくる者はおらん、おそらく親先生の指図で、また親先生がこれは持ってきておられるんだろうが、この人形の中から愛子さん。
 分かってくれよというものを、その声を聞くように思うと人形を見て。そしてはっきり親先生がここを改まってくれよ、ここと言われる事が分かる、自分の心に痛い程それを感ずる、けれどもそれを改まったらもう生きる楽しみもないごたる様な改まりを私に親先生が求められておるとこういうのである、出来ない出来ないけれども、もどかしいもどかしいけれども出来ない、という悩みを皆さんに今日は聞いて頂いたんです。
 信心とはそれだと思うんですね、出来ると言う事は無いです、けれどもね、非は非と悟らせてもろうて詫びていく、そしてでけんけれどもそれに取り組んでいく、その取り組んでいくうちにいろいろと分からせて頂く事があるのです、大きな岩に向かって一生懸命に力を出すと言うこと、まぁ脇から見たら馬鹿んごたる、そん位な事人間じゃから当り前たいと、例えば言う所をです。
 けれども信心させて頂く者はいよいよ自分自身の心を見極めて、神様が私に求め給う修行であり、親先生がどこを改まれと、言葉では言われんけれども、願ってござることがこの人形を通して感じられる、だから、それをいいかげんにしない所に悩みがある、悲しさがある、苦しさがあるとこういうのである。けれども自分にはそれはとても今の私にはできないけれどもと言うて毎日それに取り組んでおると言うのである。大きな岩に向かって一生懸命力んでおるようなものです。
 その岩は一分だって一寸だって動いておりません、自分は改まる事は出来ません、それが歯痒い情けない、けれどもねけれども、私はそういう生き方を私共がさせて頂いておるうちにです、私の方のこちらの方には力コブがでけてくる、力が出来てくるその力が出来てくる時にです、どうしてこのぐらいな事が、例えば何年前のことを思うて見てですよ、このぐらいな事が難しかったであろうか、こんな気安い事こんな楽しい事も、こんな有り難いことをどうして難しい思うておっただろうかと言う様にです。
 三年後また四年、五年後にです、それがでけてくるようになるから不思議なんです、出来てはいない、一つ動いていない、歯痒い、けれどもそれをうまずたゆまず押している内にこちらの方に与えられるのが力である。私は今日私が思うておる、言おうとしておることのです、そういう一つの過程をね、愛子は話しておったように思うのですね、もう人間だからあたり前それをね、当たり前になったらもう信心のない者も同じです。出来んでもやはりそれに取り組んでいく精進努力が必要なんです。
 今朝から( ? )私の( ? )当たってくださいました、( ? )は私ですから、御祈念の後に残った、そして、ある事の願いをいろいろとしてありますけれども、それが、いわばチグハグになる訳です、そこでそのことのお願いを( ? )私が申しました、茂さん、少し信心の工夫をしなければいけないよそういう時にはね、願い事がすぐ降ってくる時は有り難いけれども、願いがそこに引っかかり、ここに引っかかりして、スムーズないならそれは神様が信心の工夫を求め給う時だからと申しました。
 まあそれが心にいろいろ引っかかったでしょう、どうしも8時までならんとここがお取次ぎが済みません、でその間を一生懸命ここでお昼まで一人で御祈念をしておられましたね、話を聞くばかりが脳ではない、わが心からも練りだせと、これはねいわゆる、一番始めに申しましたね、本当に人間の幸福のすべてをね、頂けれるね、そしていうならば、目指すところ、皆さんの目指すところは(  ?  )やっぱり、そして私が言っておるように、それこそ、口を広くしてから言えれることはね。
 私のような人間が世界中の隅々に広がったんならばです、世界は絶対に真の平和、保たれる、そして、人間氏子全部が貧乏がなくなる、問題がなくなる、いや問題はあっても、その問題はいよいよより向上する事のためにその問題はあるのだと言う事なのですからね、そういう例えば今日は素晴らしい事のためにです、その精進というの、その過程をね、いわば、聞いて頂いた、また(  ?  )ところ、そこなんです、だからそこんところの一部一部をね、分かったとか、行ずるではなくてです。
 そのいよいよところの根本がね、みなさんが言えれる、私のような人間が世界中に、私のような人間が村中にはびこったら、はびこるちいうて、多くなったらね、( ? )バイキンのごたる、はびこるちうた、(笑い)でけていくといことがね、もう一人づつでもそういう私と同じような、心がけの人が出けて来る事を楽しみに、私は日常の生活がなされると言う様なね。
 そういう一つの自信のもてれる、氏子にならせて頂くと言う事なんですね。私は今日、このことを思うてから、12月、正月ですかラジオで、そのお話をしてくれというて御本部から言うてきた、もう私は困ったことなんですけれども、けれども考えよったらこのことばいっちょ話すなら話そうかと思いよりますね、私のような人間がね、世界中の隅々に、私はでけれるように、それをあの人の手本のようにというて精進する人達がでてきたら世界真の平和が必ず保たれるね。
 戦争もなくなるだろう、武器も作ることもいらんだろうとね、警察とか、裁判所はなおさらいらなくなるだろうと言う様な世界を目指してですね、それが千年万年後に実現するかしないかそれは分からないけれどもです、私共がそういう人間が一人でも多くなって行く事を教祖生神金光大神は教えられたんだと言う事をね、話そうかなと思っております。ですからそういう、なら片やいっぺんに一速飛びには、初めから先生はおらないね、それを、例えば、愛子が申しておりましたのはですね。
 お道の教師にならせて頂いて、親の信心を受け継いで、お道の教師までお取立てを頂いて、そして、こういう所ではいけないという所がです、親の信心を本気で狙おうとする、親の願いというものが、いわれないけれども、聞こえてくる思いがする、それぞれに取り組むけれども、なかなか出来ない、とても親先生がここを改まれと声の無い声で言うておられることをもし聞いたら、私の現在は、もう人間をやめなければならないほどに苦しい事だと、けれども、やはりそれに取り組んでおる、それなんです。
 信心とはそこに工夫がいるのです銘々の。今日茂さんに申しました、一つの問題がスムーズ、願ってスムーズに行かないならね、そのことをもってです、信心の工夫をセロと言う事はね、一歩信心を前進せにゃいけん、わが心が一歩神様に向こうていかなきゃいけない、( ? )、ここを一つ分かってくれよといいよんなさる神の声を聞かなければいけない、と言う訳なんです、そこで聞く状態と言うものはです。
 又はそういう雰囲気を私はもちませんとこういう、文男先生なんかを、あの話を聞いておくと、それが本当に見事にでけておんなさる感じがするというお話がありました。うん、そげんいいや、昨日もですね、こんなことだったというて話したからです、丁度二十日の菊栄会の晩でした、( ? )その晩の私と文男さんの、まあ、場面ですかね、一シーンです、そのことをです、もう言葉では言われないけれども、言葉でいうならこう言うことだと言うて話しました。
 これも昨日でしたか、田主丸の居励会が終わって、弟の嘉朗さんが、今日は福岡の教会で、北九州の青年の集いがあっておりますと、その中から、久留米地区から誰か一人お話をしなければならない、いわば、選ばれておった方がつうふがでけて、できなくなった、それで、まあ嘉朗さん所に電話がかかってきてから、秋永さんちアンタがそれを受け持って、あの、引き受けてくれないかと言う事である。
 あぁそれは親先生にお伺いしなきゃできんけれども、まあとにかく今日、今晩前からお願いしとこうと、言うておりますが、どんなさせて頂いたらいいでしょうかとこういう、ね、それはあんた、福岡教会でお話をさせてもらう、お話の内容をあんた、自分で持っておるのだから、ね、お願いをさせて頂くから、まあさせて頂いたらよかろうと、いうておりましたが、その時にです、嘉朗さんがこういうことを話すんです。
 丁度私( ? )帰った後に、私と若先生と嘉朗さんと三人でお茶を頂きながら、もう夕べはもう私は(  ? )、いよいよ、もう文男さんがおーそうまで、朝一時半頃まで( ?  )、足もみきたらもう、足もみがもうおわったけん、帰りゃよかっつに、まーだそれかいっときばっかり話していっても、帰る時は一時半じゃった、私の部屋から出ておる時が、だから眠かったっち、私は申しましたが、( ?  )いうんですよ、先生、あなたと同じようなことをいつも文男さんも昨日いいよりました。
 今日はきつかですね、と言う言葉で、でいいよりましたよちいうて、どうして(  ?  )、昨日はちょうど、あの後藤さんの、福岡のお宅のお神様の奉祭式がございました。こちらから、若先生博道先生が行った、それから知り合いの方達が沢山行く、それから福岡のご信者さんがたみんな集まって、それこそ盛大な賑やかな、本当に麗しい奉祭式があったと言う事、文男先生のお導きですから、文男先生は夫婦で、まあ、早うから御用にいっておった、その、お祭りを奉仕させて頂いた後にね。
 ねるべっちょが話よりましたね、ねるべっちょというのは、その文男先生がおるところがねるべっちょちいうんです。ねるべっちょが話よりました、もう夕べは眠かった、眠かった、もう親先生がいつまっでん(  ?  )、朝の一時半まで(  ?  )今日は眠いして答えんちいうてから、親先生、あんたと同じような事をいいよりましたよち、それがもう先生、私、兄弟の私が聞いとってもですね、もううらやましゅうして答えんごたる話し振りでしたと言うのですね。
 ほんと、親先生が(  ?  )こうじゃったちいうて、悪口のごたってです、もう本当にそれを聞いておって、兄弟の私がです、もううらやましい仲なだ親先生と(  ?  )と思うたこういう、そして先生が夕べいわれるように、夕べは文男さんがあんた一時半までおったけん、寝不足たい、早うねらにゃんでけんち私いうたら、先生( ? )もそれといっちょ同じような事をいいよりましたよち。
 なら先生の話を聞きよってもです、本当に困ったごたるふうじゃいっちょん有り難うで嬉しゅうして答えんごたるで話してくださるという訳なんですよね、そう言う様なものがね、親先生私には欠けておりますとこう茂さんがいうとです、成程茂さんがもっておるものは文男さんは持ちましょう、けれども、そういう例えば私と文男先生がなんか、その、交流しておるということ、これはもう理屈じゃないってね。
 そういうものがどこから生まれてくるかと、なら文男さんが私のところまで信心が進んで、まあ、(  ?  ) じゃないけども、私よりも優れた所もありましょう、けれども、私のところまできておるとは思えない、いうなら、天地と( ? )開きがあるものがです、同じ思いを交流して、それに酔うほどに、いわば、幸せを感じておると言う事なんですよね、信心はそれなんですね、私が生神金光大神になった訳でもなかなければ、金光大神の御神格を頂いた訳でもないけれどもね。
 そこに文男さんの心の中には親先生と同じ幸せというものをいつも感じておる。文男さんのような人間がです、もし福岡の町にね、確かに触れていったら、福岡の町っちゃ、それこそ、平和な町が生まれてくるだろうと私は思うですね。私がどげんして伝えたとか、どげんして教えたとか、もう理屈とか言葉じゃない、場合には悪口聞きよったっちゃ、それが、人が聞きよるとうらやましゅうして答えんような仲というものがです、いつのまに育って生まれたと言う事なんですね。
 信心と言うのはです、先ほどから申し、愛子が申しておりますようにです、出来ない、分からない、けれども、それに取り組んで一生懸命極めていくうちに力が生まれるね、その力がね、今まで、例えば創造もつかなかったことが思えれるようになり、又はそれが実行できるようになってくると言う事ですね、文男先生がいつも申しますでしょうが、もう一生腹は立てないと決めておる事がです、この頃はもう楽に出来るようになった、とてもとても出来そうにも無い事が出来るようになったね。
 そういう人がです、一人でも、二人でも、三人でも、私の周囲にでけていっておると言う事が、有り難いことじゃないでしょうか、それが世界の平和に繋がるのですね、おそらく、ならあれたちが、これは文男さんだけじゃありますまいね、ただいま真ん前に永瀬さんがおられるが、本当に永瀬さんが思われるだろうと、私のような人間がおるならばと、ね、田主丸の町は、もうこっとりというまいけれども、と言えれる永瀬さんであると私は思いますね。
 なら、佐田さんがおられます、佐田さんが久留米十中に、佐田さんのような一家族ばかりであるならばです、それこそ、久留米はこっとりともいわんなりに、いよいよね、商売の町として有名ですから、いよいよ、素晴らしい商売の町、繁盛していく町がそこに誕生するだろうと言う事ですね、そういう人がね、まあ(   ?  )合楽にはできていきよるということが有り難い、そのなら中心になっておるのは結局私であり、私の信心であり、それを見習おう聞き習おう、または、それがいつのまにやらですね。
 そこんところにおかげを頂いて行けれる道が開けてくるね。このことを願わんならんから、頼まんならんから合楽に参ると言う時代からですね、とても私が私のような人間がですね、この町におって、それが一人づつでも私のような人間が増えていくならば、町はこっとりともいうまいと思えれるほどしのね、確信をもった私にならせて頂かなければならないと私は思う、それが合楽通いのまた値打ちでもあると思う。
 それぞれにですね私共では真似の出来ない、特徴を皆さんが一人一人持っておられますね、だからそれをね、いよいよ素晴らしい事にするためにまず、自分の心の上にです、そういうものいわば見方感じ方、今朝からの御理解のようにね、三宝様を踏むな三宝様を踏むと目がつぶれるというがと言う事、三宝様とは穀物の意であると言う事ね、お米とか食べ物をお粗末にするというと目がつぶれる、私の方のババはいいよりましたね。
、ご飯つぶやらふんつけたりどんしよんならば、足がひたいごつにつるぞちいいよりましたね、そげんいうて教えられてきた、それが段々こうじてまいりましたら、その三宝様と言うことがです、ね、心の上に頂く所の三宝様、心の上に頂く所の宝、これを粗末にしてはならない、それこそ、たたみ踏みつけられるようなものであってもそれを押し頂くような心なのである、そげなん馬鹿らしい事は嫌だと言う事なんです、こんな腹ん立つことはないと言う事柄なんです。
 その事柄こそが三宝様であり、私の心の糧なのである、だから、これを押し頂いてと言う事が御事柄を、成り行きを大切にせろということなんです、ね、そういう生き方をです、体得させていただく、そして、それを「じ?」をもって生活の上に現して行くという信心、ね、そこから、例えば、金の徳も物の徳も、ね、または健康の徳も頂かれるであろう、これ三つを持っておる人が、こういう徳を持っておる人はいくらも世の中にある、金をたくさん持っておる人は、やはり、金の徳をもっとるである。
 それこそ、打ち殺したっちゃ死なんごたる健康の体をもっておる人は、やはり健康の徳を身につけておるのであるね、それこそ、信心はなかっても、あらゆる素晴らしいものを持っておる人があります、それをやはり物の徳というものを身につけておるからなんだね、所がです、人間と言うものはこういう三つの徳を持っておりながら、それが慢心になってくる、いわゆる、健康であるある人が腕力を持って訴えたり、凝視したりするね、お金を持っておる人がです。
 贅沢三昧にふける、物を持っておる人が物を粗末にする、そしてですね、それほどしのおかげを頂きながら神様の心を無くしてしまう、そういう時にはもう貴方はね、もう目がつぶれる寸前だ、足がひたいにつくもう前例だと悟れと言う御理解でしたよね、今日の御理解は。物をお粗末にする、物とか健康とかそれをね、有り難いとも感謝の心も起こらないと言う事はね、いわゆる、三宝様を踏みつけておるようなものであるからです、これは目がつぶれる前例であると悟れと、そこでです。
 私共がこれで神徳、人徳を頂かせてもろうて初めてね、いわゆる実れば実るほど頭が下がっていくというおかげね、そういうおかげを頂いてならんという今朝は御理解を頂いたね、その神徳人徳をいよいよ私共の場合はね、合楽に御神縁を頂くほどしの人は、なるほど難儀な人、めぐり多き人ね、ですから金も不自由しとる、不健康な人もある、物のふんだんには持たないね、だからまだ慢心の出ようが無いくらいなんだけれども、これをどうでも神様が下さろうとしておるのであるから。
 これを頂いてもおかげを落とさんで済むために神徳人徳を一つ身につけて行く様な信心をしなければならない、神徳人徳を身につけていくならばですね、それこそ実れば実るほどかがんでいく、稲穂のように頭を低くしていかなければおられなくなってくるのが信心であるね、そこでは初めて五つの徳、五徳が揃う、そういうおかげを頂かせてもらう、それをまたの言葉では天地日月の心に肝要だと教祖様は教えておられますね。
 その天地日月の心になること肝要なりと言う事を具体的に合楽では様々な表現で申し上げておるでありますね、成り行きを大切にするとか、御事柄としてその事柄を受けていくと言う生き方なんです、そういう生き方が身に付いた時です、私が言えれる事は、皆さんがいいなさる事は、私の様な人間が世界の隅々に多くなっていったら世界真の平和はもういよいよ間じかと言う事なる、だからそれを私一人のものにせずにね。
 自分の周囲にそれを広めて行けれるだけの内容を身につけて頂きたい、頂いてもらいというのでございますね。皆さん一つ思うて見てください、私の町内に、私のごたる人ばーっかりならもういよいよ町内が繁盛するだろうと思う、そこで私のようなその生き方をです、隣の人にも向かえの人にも伝えて行けれる信心をしなければならないと。今日秋永さんが先ほど言っておられましたが、北九州の幹部の研修会に先生がみえられた講師として、ここにみえられた先生です、そしてたくさん集まった中にですね。
 みなさんこれだけの集まっておられるが、お導きをなさった方が何人おりますかと手をあげて下さいち、沢山集まっておると、バラバラで2、3人手をあげただけじゃった、そんなら導かれたお方はというたら、やっぱり2、3人じゃったね、してみるとです、なら、もう親、親の代から信心をしておるという人達がほとんどであってです、新しく導かれたり導いた、これじゃー金光教はもうしまいてしまうばいち仰ったそうですね、例えばならいかに、さぁー金光様に参れ参れというたってです。